1932年に大学を中退し、舞台俳優として活動を始めたが、第二次世界大戦中に徴兵され、そのキャリアは中断された。戦後、松竹の俳優となり、1946年の「喜劇は限りなく」に出演した。松竹を退社して演劇に戻り、マクシム・ゴーリキーの「下層部」に主演・演出をした。1947年、衆議院議員に立候補して落選。渋谷に移り住み、日雇い労働者として働いていたが、胃潰瘍のため、この仕事にも支障をきたすようになった。療養の傍ら、宇奈上は「人離れの生活」という題の物語を書き、東宝の森巌取締役に提出した。この作品は採用されなかったが、1953年、東宝の演劇部に入社した。東宝時代には黒澤明監督の『七人の侍』など数本の映画に出演しているが、ちょい役である。俳優として活動する一方で、宇波上氏は映画のための物語を書き続けたが、そのほとんどは映画化されなかった。ゴジラ再襲来』の続編を企画した『ゴジラの花嫁』は代表作のひとつである。また、最後の映画出演となった『ミステリアン』では、『H男登場』という作品を書き、田中知之プロデューサーがこれを読んで映画化を決定した。しかし、1957年11月14日、心臓発作で亡くなってしまった。ミステリアン』で共演した土屋嘉男は、宇奈上の心臓発作はミステリアンのコスチュームを着たことによる肉体的ストレスが原因だと考えていた。宇奈上の早すぎる死にもかかわらず、木村武は『H男登場』の物語を1958年に本多猪四郎監督の『H男』の脚本に脚色し、宇奈上には死後のクレジットが与えられることになった。また、田中は宇奈上の『ゴジラの花嫁』において巨大なノミがゴジラとアンギラスを食べていたことに影響を受け、『帰ってきたゴジラ』にショッキラスを登場させた。 (Wikizilla)
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