日本の前衛詩人、戯曲家、作家、映画監督、写真家。ラジオドラマ、実験テレビ、アングラ演劇、反体制エッセイから、日本のヌーヴェルヴァーグや「拡張」映画まで、その作品は多岐にわたる。
学校に行って一生懸命勉強するよりも、ボクシングや競馬を通じて学ぶことの方が多い」と主張するエッセイを多数発表している。そのため、1960年代後半の日本における「家出」運動の中心人物の一人であり、著書、戯曲、映画『本を捨てよ、町へ出よう!(書を捨てよ、町へ出よう)」で描かれた。
寺山は1967年に劇団「天井桟敷」を結成した。この劇団名は、1945年のマルセル・カルネの映画『Les Enfants du Paradis』の日本語訳に由来し、直訳すると「天井桟敷」(英語の「ピーナッツギャラリー」に似た意味)である。この劇団は前衛的であり、社会問題を象徴的な視点から取り上げた数々の問題作を、東京の街角や民家といった型破りな場所で上演した[6]。[6] 代表的な作品として、『青ひげ』、『イエス』、『大山デブ子の犯罪』などがある。また、劇場にはアーティストの宇野亜喜良や横尾忠則が関わり、グループの広告ポスターの多くをデザインしている。音楽面では、実験音楽のJ.A.シーザーや民謡の三上寛と親交があった。また、劇作家の岸田理生(きしだ りお)も所属していた。寺山を師と仰ぎ、『毒男』『客席』『レミングス』などを共同制作した。寺山は、市民生活をファンタジックに風刺した「都市劇」を試みていた。
また、1967年には「万有引力」という実験映画館とギャラリーを立ち上げ、現在も資料館として三沢に残されている。寺山修司の戯曲、小説、詩、写真、そして多くの遺品、演劇の遺品が収蔵されている寺山修司記念館も三沢にある。
1976年、第26回ベルリン国際映画祭に審査員として参加。
1997年、母ハツから寄贈された遺品をもとに、青森県三沢市に「寺山修司記念館」が開館した。美術館の設計は、寺山とコラボレーションしたことのある映像作家の粟津潔が担当した。2015年現在、館長は『本を捨てよ、路上に集まれ』(1968年)に主演したこともある詩人の佐々木永明が務めている。
朝日新聞社は2001年の朝日舞台芸術賞の発足に伴い、寺山の名を冠した賞を設けた[11]。「寺山修司賞は芸術的革新性を発揮した個人または団体を表彰するためのものである」。しかし、2008年に賞の授与が停止された。
2012年3月、ロンドンのテート・モダンにおいて、九条恭子と寺山の助監督であった森崎偏陸が出席した寺山へのトリビュートイベントが開催された。