田中登は、昭和三部作として知られる3作品を含むロマンポルノ映画で知られる日本の映画監督である。昭和三部作と呼ばれる『阿部定という女』(1975)、『屋根裏の番人』(1976)、『美女のエキゾチック・ダンス』(1976)などがある。拷問だ!(1977年)の3本で、いずれも日活ロマンポルノの女王・宮下順子主演である。現役当時は熊代辰巳や曽根中生などの影に隠れていたが、現在では日活ロマンポルノの監督としては田中が一番と評価する評論家も多い。
1937年8月15日、長野県白馬に生まれる。明治大学でフランス文学を専攻した。早くから小説家を志していた。
イメージと文学の関係をテーマにした卒論を書きながら、映画製作の現場を知るために撮影所でアルバイトをした。黒澤明監督の『用心棒』(1961年)で制作助手を務めたことが、田中が映画界に興味を持つきっかけとなった。卒業後、日活の助監督を志望し、入社試験を受ける。
1972年、初期ロマンポルノ『花びらの玉』で初監督のチャンスを得る。原題は『萌える私』で、田中が常に好んで使っていたタイトルであった。
同年、娼婦たちの生活を異様にリアルに描いた「牝猫たちの夜」を監督。この作品は、田中の初期の代表作の1つとされている。また、1972年には『夜汽車の女』を発表し、好評を博した。
キャリアを重ねるにつれ、田中の作品は、過酷で残酷な世界の中で、想像力に富んだ、時にはシュールな色使いと詩的なイメージで知られるようになった。1973年には、『シークレット・クロニクル』三部作の二作目『シークレット・クロニクル』を監督した。拷問地獄』である。19世紀の売春宿を風刺した第1作とは対照的に、寺院で行われる宗教的な性儀式を真面目に描いた。この作品により、田中は1973年に日本映画監督協会新人賞を受賞している。
主婦の強姦致死』(1978)は、そのセンセーショナルなタイトルにもかかわらず、田中の代表作のひとつとされ、彼のメインストリームにおける大きな批評的ブレイクスルーとなった作品である。キネマ旬報は本作を1979年度の作品賞に選び、田中は本作と『ピンクサロン』で第2回日本映画学校監督賞にノミネートされた。同じく1978年の『ピンクサロン 5人の淫らな女たち』と合わせて、田中は第2回日本映画学校監督賞にノミネートされている。
日活で25本近くの映画を製作した後、田中は日活を離れ、他のスタジオでメインストリーム映画の監督に挑戦した。1983年の松竹映画『運命の村』など、ヒット作を数本監督。その後、日活に戻り『怪物女’88』を監督した後、映画界を引退した。国際的な評価が高まりつつあった矢先、2006年10月4日、脳動脈瘤のため死去。