大川 弘は、新潟県西蒲原郡金井村羽黒出身の日本の実業家、映画監督である。東映の事実上の創業者である。
江戸時代から庄屋を営み、明治時代には東長という家に生まれた。岩倉鉄道学校、中央大学法科大学院を卒業。中央大学在学中に鉄道院に入る。
1942年12月、鉄道省の先輩である五島慶太にヘッドハンティングされ、東京急行電鉄に入社した。副社長、事業本部長、専務取締役を経て、1951年に副社長となる。
1951年2月、東京映画配給(東映)の社長に就任した。当時、会社は極度の債務超過で多重債務に陥り、経営状況は深刻であった。東映を東急グループの主軸として経営したいという後藤の強い意向もあり、大川は徹底した予算管理、コスト管理を行った。そして、主な資金調達先を、街の高利貸しから銀行融資に徐々に切り替えていった。そして、「ひめゆり記念塔」のヒットで、業績は徐々に回復していった。時代劇が解禁され、時代劇スターを多く抱える東映の業績も上向いた。