三井弘次は、日本の映画、テレビ、舞台俳優である。1925年から1975年まで150本以上の映画に出演し、その中にはキネマ旬報の年間ベストテンで29本、日本映画のベストテンで3本が含まれています。
松竹の映画館主の息子として1924年に入社し、1925年に三井秀雄の名で映画デビューを果たした。小津安二郎の代表作や「与太」シリーズの常連で、無声映画や初期の録音映画に青年主役として数多く出演している。
やがて三井は松竹を離れ、1948年に三井弘次として復帰し、性格的な役柄に移行していく。1954年、松竹の芸人たちとともに、安定を図るための映画製作会社「まどかグループ」を設立。
戦後の人気俳優の例に漏れず、三井も小作品で主演を務めることはあっても、脇役で輝くことが多かった。1957年、黒澤明は松竹から三井を借りて、『下層』の重要な役である賭博師・吉三郎を演じた。この映画の最後のセリフ、登場人物の自殺によってパーティーが台無しになったことに腹を立てた三井は、「見ていていつも衝撃を受け、いつも打ちのめされ」、第四の壁を破るその言葉は「全く的を得た、皮肉、残酷、面白、恐ろしい」のであった。黒澤はその後、三井(1950年の松竹映画『スキャンダル』に少しだけ出演していた)を東宝の5作品に起用した。
1957年、三井は『下層』で毎日映画コンクール助演男優賞を受賞したほか、渋谷実監督作品『片肌脱』『正義の味方』の2作品に出演している。
また、この年、『下層社会』と『生き地獄』でブルーリボン賞助演男優賞を受賞している。この「下層」での2つの受賞により、三井は、黒澤が60日間にわたる撮影現場でのドレスリハーサルを経て選び抜いた日本映画界最高の演技集団の中に身を置くことになったのである。
日本初のサウンド・アニメ『力と女のヨの中』(1933年、消失)に声優として参加し、日本初のカラー映画『カルメン故郷に帰る』(1951年)にも出演した三井。1934年に小津監督が製作したオリジナルのサイレント映画『浮草物語』ではスタントキャストを務め、1959年に小津監督自身がカラーでリメイクした『浮草』はロジャー・エバート監督が「史上最高の映画10本」のひとつと評し、大きな反響を呼んだ。
黒澤、小津、小林正樹、木下恵介など著名な監督に数多く出演したほか、欧米の観客には勅使河原宏監督の『砂の女』(1964年)で二枚舌の村長役で知られ、オリジナルポスターでは主演の岡田英次、岸田今日子とともにタイトル前掲の札を付けています。