村田 実(むらた みのる)は、東京都神田区小川町出身の大正・昭和初期の日本の映画監督、脚本家、俳優。日本映画監督協会初代副理事長。
新劇運動からかえりやまのりまさの映画芸術協会に参加し、「蝋人形の霊魂」の演出で知られる。洋画の手法を積極的に取り入れ、松竹の “蒲田流 “に対して、男性的で重厚な日活現代劇の礎を築いた。
中学卒業前から舞台劇を観劇し、エドワード・ゴードン・クレイグの舞台美術に感銘を受け、演劇の道に進むことを決意する。研究所で絵画を学び、帝劇文芸部の給仕を務めた後、栗島左玄、石川貴船
村田は、カットごとに演出を細分化する、いわゆる映画的手法を確立した最初の監督の一人と言われている。
1927年3月、「映画時代」3月号の「監督人気投票」で第1位に選ばれ、監督として確固たる地位を築いた。
1932年8月、撮影所従業員186名の大量解雇による大争議が勃発し、従業員側の他の専務と争議を主導した。9月、「紛争を処理する能力がない」として退社。同時に長女を亡くした。
1936年秋、「新月抄」の撮影中に糖尿病で倒れ、東大病院に入院する。
1937年6月26日、胸膜炎で43歳の若さで死去。