14、15歳頃、「嫌なことがあったから」と叔父の機屋を出て、京都に行ったという。
尾上松之助の忍術映画や海外シリーズの活動写真などを休憩のたびに見て、「役者になろう」と決心したという。まず、長谷川伸を訪ね、牧野省三に紹介された。しかし、マキノは “やめろ、お前には役者になる顔がない “と言ってきた。
この頃、一人で監督をしていたマキノ雅弘のロケに同行するようになった。”1円持って、監督のタバコを買いに行くのが仕事みたいなものだった “と喫煙者のマキノは言うが、30銭のお釣りはすぐに忘れてしまい、溜まったお釣りは小遣いになっていた。
1927年2月、日活総合写真館の研究所に俳優として入社した。牧野のユーモアのおかげで、月給は25円と異例だったが、斬られ役専門になった。真冬に飛び込めば1円50銭、春と秋は1円、夏でも30円という具合である。
1933年(昭和8年)、マキノ雅弘が初めて剣を習うことになり、月形龍之介は剣術をやっていた。以来、1951年(昭和26年)まで、剣術を続けている。
1949年(昭和24年)頃、マキノ雅弘の家に下宿したことがあり、久世はマキノからカメラアングルや時代考証、助監督、カメラマンの勉強をさせられていたそうだ。”それがとても役に立った”
1951年、マキノ雅弘とともに新東宝に移り、「彌太郎シェード」のほか、鶴田浩二が殺陣をつけた。さらに日活に移り、「木曽路の甲」などを担当。
1958年(昭和33年)、「隠し砦の三悪人」に武将役で出演。
黒澤も久世も言ったら引かない性格で、ついに柴山監督が久世のために剣戟に乗り出した。
以来、黒澤明、稲垣浩、岡本喜八などの東宝時代劇で殺陣師として活躍。三十郎椿」「武士」「風林火山」などの作品では、斬新でダイナミックな演出を加え、五社英雄、湯浅健太郎とともに殺陣に革命を起こした。これらの作品に主演した三船敏郎の信頼も厚く、東宝から三船プロに移り、「三船プロ久世七曜会」を率いて、後進の剣客を指導するようになった。
当初は三崎源太郎として活動していたが、後に剣客、俳優として活躍するようになる。戦時中、映画会社の合併により大映に移り、「龍・久世」と改名した。
久世竜 について
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