栗原喜三郎は、神奈川県秦野市に生まれた。父は木材商だったが、商売に失敗。1912年に渡米し、映画俳優養成所に入学。卒業後、エキストラとして働きながら、トーマス・ハーパー・インスがアジア人俳優のために設立したオリエンタル・プロダクションに入る。そこで早川雪洲、青木鶴子、木野五郎など多くの日本人俳優と仕事をした。神々の怒り』(1914年)の武雄の演技で一躍有名になった。
1918年に帰国した栗原は、祖国の映画界で活躍することを願い、1920年4月、栗原の知人である浅野財閥の浅野亮三が横浜の山下町に設立した大正活映に入社した。そこで、映画監督としてのキャリアをスタートさせた。大正時代の初作品は、谷崎潤一郎が映画ライターとして参加した『素人倶楽部』(1920年)である。
1922年に大正映画製作所が映画製作を中止するまで、栗原は30本以上の映画を製作した。また、多くの映画監督や俳優を指導した。内田吐夢、井上金太郎、二川文太郎、岡田時彦、葉山三千子、江川宇礼男、渡辺篤史など多くの映画監督や俳優を指導した。
栗原は1926年9月8日、41歳で死去した(IMDB)。