1914年(大正3年)、福島中学校(現・福島県立安積高等学校)に入学したが、同年7月3日に中退し、井上正夫一座に入り、本郷座で初舞台を踏んだ。.1922年(大正11年)松竹蒲田撮影所に入社、国島昇を名乗り、1923年(大正12年)7月1日、松竹蒲田撮影所に入る。池田嘉信監督による公開映画『水藻の花』に出演し、デビュー。1924年(大正13年)、松竹京都撮影所に移り、12月31日公開の清水宏監督作品『村の巻藁』に出演後、芸名を国島総一に改める。再び松竹蒲田撮影所に復帰。1927年(昭和2年)、重役に昇進するも、生まれつきの病気で療養のため退社。
1930年(昭和5年)、河合映画製作所に戻り、主演男優としていくつかの作品に出演する。1931年(昭和6年)、『東亜キネマ』を経て再び松竹蒲田写真館に戻り、1932年(昭和7年)6月10日に公開された。五所平之助監督の映画「彼岸の恋人」が最後の出演となる。1979年10月23日発行の『日本映画俳優全集』など、その後の行方がわからない資料もあるが、『公演図録』 1932年(昭和7年)12月号で、9月2日に32歳で亡くなったと報じられている。
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