本名は錦之介。東京岩戸町(現・新宿区岩戸町牛込)に生まれ、新富町(現・中央区新富)に育つ。
父は市川三代目一座の初代座員で、錦之助も幼少時に「市川鷹之資」の名で奉公した後、作家として活躍した。
1908年(明治41年)(31歳)、数名で退団し興行主任となり、1912年(明治45年)、松竹合名会社(現・松竹株式会社)へ。錦花も私立大学教授になると松竹に移った。
1919年( 大正8年)(42歳)、赤倉富子(木村富子)と結婚。目澤村源之助碁聖は二人の間の子である。
1920年 ( 大正9年 ) 松竹映画第1作『 島の女 』を監督・製作。
関東大震災後の1925年1月、歌舞伎座が再建・開場されると、幕府の総代・代議士となる。1928年、松竹の演出家となる。脚本は60本を超え、『明治座物語』(1928)、『近世演劇史』(1936)、『森田寛也移行期演劇史』(1943)(新富座)(関係)も刊行された。また、1936年から1940年まで演劇雑誌「中央劇場」を主宰した。
1944年、太平洋戦争の終結とともに、妻・富子を失う。
戦後、松竹を退社し、かつら屋を経営。また、舞台芸術連盟の会長も務めた。
1960年(昭和35年)死去。83歳であった。 東京都品川区南品川4丁目、天龍寺で富子と眠る .