吉村公三郎、溝口健二、市川崑、新藤兼人らの助手を経て、『薔薇大名』(1960)でデビューした大映の華やかなチャンバラ監督である。3作目の長谷川伸監督作品『沓掛時次郎』(1961年)で、俳優の市川雷蔵と実りある共演を果たした。市川は、『中山七里』(1962)にも出演している。この作品は、放浪の賭博師が殺された妻に似た女性を助けるというもので、池広が主人公の哀愁と孤独を強調することによって、「又旅」というジャンルに新鮮なタッチをもたらしたと考えられている。また、復讐劇の『一匹狼』(1968年)も又旅映画として愛好家の間で高い評価を得ている。
池広監督の作品の多くは、様々な職人が分担して製作した長期シリーズへの参加であったため、池広監督自身の評価は低かったかもしれない。勝新太郎を主役にした3本のシリーズの最初の作品『座頭市千両箱』(1964年)は、三隅研次や森一生のエピソードに比べると面白みに欠けるものだった。しかし、市川雷蔵が堕落した外国人宣教師と日本人クリスチャンの間に生まれた戦士の息子を演じた、英語で一般に「Sleepy Eyes of Death」と呼ばれる風変わりなシリーズの第4作『眠り狂四郎/常用拳』(1964)は、大胆な色使い、表現主義のカメラアングル、明白なシンボリズムによってアンチヒロの苦悩する心理を引き出された驚くべき作品であった。池広監督の想像力は、この様式化されたプロットによって自由に発揮され、後にさらに奇想天外な2作を発表している。
池広は大映の60年代の契約監督の中で、視覚的な発明という点では最も優れていたかもしれないが、その輝きは比較的浅いものになりがちだった。したがって、多くの人が語り継いでいる民俗英雄・安兵衛伝説を描いた『破戒録』(1969)は森一生(1959)の『薄桜鬼』よりもスタイリッシュだったが、心理描写や痛々しさは薄かった。大映での晩年、池広は『血の轍』3本を監督した。これもまた孤独な復讐者を描いた一連の映画である。この頃、池広監督の作風はやや粗くなり、暴力描写も必要以上に強調されるようになった。大映の倒産後、松竹が製作した劇場用長編映画『化粧』(1984年)を除いて、テレビ界で活躍することになる。
(出典:日本映画監督批評ハンドブック)