Hojo Hideji

北条秀司

性別: 男性
生年月日: 2002年11月7日

固有名詞: 北条秀司

出生時の名前: Hideji Iino

国籍: 日本の俳優

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北条秀司 について

大阪市立厚生商業学校(現・大阪市立天王寺商業高等学校)予科に進む。1920年、本科に進まずに日本電力を退社。在職中に関西大学文学部を卒業。

1919年、商業学校在学中に室町銀之助のペンネームで宝塚歌劇団の第5回脚本公募に応募し、一等に選ばれる。1920年7月、受賞脚本は「コロンブス探検隊」として宝塚市公会堂劇場で上演された。

1926年、久松和久の誘いで宝塚歌劇団への入団の話があったが、面接時の宝塚幹部の態度が横柄だと感じ、入団を拒否した。1926年、東京工事事務所に出向し、上京する。1928年、日本電力と小田原電気鉄道の合併により新設された箱根登山鉄道株式会社に出向し、小田原に居住。経営者として強羅ホテル建設に携わる。

箱根登山鉄道在籍中に、劇作家を志す岡本綺堂に師事。北条秀司」のペンネームは、やがて木戸が命名したもので、小田原の戦国大名、北条氏にちなんだものである .城戸が主宰する月刊誌「舞台」に参加。

1937年、「舞台」掲載の「授賞式」が新国劇で上演され、舞台デビューし、サラリーマン兼業劇作家となる。1939年、木戸を退社後、劇作家となり上京。1940年、長谷川伸に師事し、長谷川主催の脚本研究会「26日会」に参加 。1940年、「閣下」で新潮社文芸賞を受賞。1944年から日本文芸報国会庶務部長を務める .同年、南京で開催された第3回大東亜文芸大会に日本側の責任者として参加。

戦後は、自作の演出も多く担当した。

1947年、新国劇の演出も担当していた辰巳柳太郎主演の「王将」が大ヒットし、続編を2作書いて1950年に初演した。また、映画化されることも多かった。1957年、日本将棋連盟からアマチュア三段を授与され、その後、村田英雄王のヒットで四段を授与された。しかし、北条は通常将棋を指すことはなく、「王将」の企画も辰巳柳太郎が持ち込んでいる 。

1959年、新国立劇場で、裁判中の「松川事件」が劇化された。

1951年「霧の音」で毎日演劇賞、1965年「北条秀司ドラマセレクション」で芸術選奨文部大臣賞、翌年読売文学賞、1973年には菊池寛賞を受賞。1987年文化功労者。その他、大谷竹次郎賞。歌舞伎、新派、新派、宝塚歌劇など多数の脚本を提供し、自ら演出も手がける。宝塚では、上田信司の師匠の一人である。

大劇場商業演劇での活躍により、演劇界の重鎮となり、日本演劇協会会長(1964〜94年、退任後は名誉会長)、国際演劇協会日本センター会長(1981年〜)などを歴任した。また、北条天皇の異名をとる。

1951年、大劇場の劇作家の親睦会である「鬼の会」を創設。

東宝の池野満プロデューサーが企画し、1960年、劇作家の生活向上を目的に、川口松太郎、中野稔、北条秀司、菊田一夫が「劇作家四人の会」を結成した。

代表作に「王将」三部作(1947-50)、「狐狸庵」(1952)、「太夫さん」(1955)、「佃の渡」、「狐狸噺」などがある。「源氏物語」を題材にした「建礼門院」や「末摘花」「浮舟」「藤壺」などがあり、その集大成が「北条源氏」である。

晩年は奇祭に熱中し、奇祭にまつわる本も多く出版された。

1996年5月19日、肝不全のため93歳で死去。晩年も新作を執筆していたといわれる。

娘は元女優で声優の北条ミチル。

関連作品(ドラマ・映画)

北条秀司は以下のドラマや映画で紹介されています。

主役として

別の役割で

関連作品(映画監督)

北条秀司は以下の映画やドラマを監督しています。

関連作品(映画監督・脚本家)

北条秀司は以下の映画やドラマの監督・脚本を担当した。

関連作品(脚本家)

北条秀司 は以下の映画やドラマを執筆しています。

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