ニューヨークで俳優修業を積んだ後、1918年に帰国し、日本の洋風新劇の先駆者である女優・松井須磨子の劇団に参加した。松井の自殺後も新劇の仕事を続け、チェーホフの「ワーニャ伯父さん」などに出演した。映画監督としての作品は少なく、わずか4本である。この作品は、年老いた粉屋が、娘の雇い主を襲おうとするいかがわしい求婚者を殺してしまうというメロドラマで、井上正夫と水谷八重子が非常に好演している。この作品で畑中は、西洋と日本の要素を融合させた。叙情的な風景画は10年代のアメリカ映画の流れを汲むが、筋は日本古来の新派の伝統に根ざし、長く静的な会話シーンは弁士の説明を明確に想定したものだった。
畑中が次に監督した『路傍の子』(1924)は、都市の子どもの貧困を社会的に描いたもので、これも現存しているが、前作のような名声はない。小沢徳治と共同監督した『のんきな親父』(1925)を最後に、畑中は演劇界に復帰する。戦後は、田坂具隆の『乳母車』など、日活の名作に出演している。
(出典:『日本映画監督批評ハンドブック』)。