藤山一郎は、東京都日本橋区出身の歌手、声楽家、作曲家、指揮者である。 東京音楽学校卒業。
東京音楽学校で培った正統派の発声法、歌唱法、音楽理論に加え、ハイバリトンの声質でテノール国民的歌手、ポピュラー歌手として活躍した。1930年代から40年代にかけて、「酒は涙か溜め池か」「丘を越えて」「東京ラプソディー」「青い山脈」「長崎の鐘」など、数々のヒット曲を発表した。
1937年の盧溝橋事件を契機に「国民精神総動員」を掲げた政府は、ユーモア、愛、情をテーマにした戦意高揚のための歌を発表するよう音楽界に奨励した。この方針に従って、藤山は「山内苦難の歌」などを発表している。
1945年8月15日、藤山はジャワ島のスラバヤからマディウンへ向かう車中で日本の敗戦を知った。独立を宣言したばかりのインドネシア共和国の捕虜となり、ジャワ島中部ナウイの刑務所に収容され、その後ソロ川中流域のマゲタンの刑務所に移された。1946年、スカルノに言われてマラン県プジョンの山村に移った。そこには三菱財閥が経営する農場があり、旧日本海軍の兵士たちが「鞍馬村」と名付けて自給自足の生活を送っていた。1946年7月15日、藤山は帰還輸送船に改造された空母「葛城」で日本に帰国した。
1972年10月、初代会長の庄司太郎の死去に伴い、日本歌手協会の会長に就任した。同協会は、歌手の地位向上を目指す任意団体であったが、藤山が会長になったのを機に社団法人にすることが話し合われていた。文化庁との折衝の結果、1975年5月に社団法人として認可された。藤山は、1979年5月まで会長を務め、その後は理事として活躍した。
1992年5月28日、藤山はスポーツ選手以外では生前初の国民栄誉賞を受賞した。受賞理由は、「適切な音楽技術と知的な解釈で、歌謡曲の独自の境地を切り開いた」、「長い間、歌を通して国民に希望と勇気を与えた」であった。
藤山は国民栄誉賞のほか、1982年春の叙勲で瑞宝章、1973年の紫綬褒章、1952年の日本赤十字社特別功労賞、1958年のNHK放送文化賞、1959年の社会教育賞、1974年の日本レコード大賞特別賞を受賞している。
1993年8月21日、急性心不全のため死去。最後のメディア出演は、同年8月14日にNHK総合テレビで放送された「第25回おもいでのメロディー」であった。
藤山の遺品は遺族からNHKに寄贈され、NHK放送博物館「藤山一郎作曲の部屋」に展示されている。また、遺族はNHKのほか、埼玉県与野市の市歌「よのすみか」を歌うために遺品も寄贈している。