藤田晋は、日本の映画・テレビ俳優である。黒澤明の初長編映画『姿三四郎』で主演を務め、『虎の尾を踏む男』『隠し砦の三悪人』などの黒澤作品に出演した。その後、本多猪四郎監督の『モスラ対ゴジラ』などの脇役として活躍した。
戦前・戦中の藤田は、日本映画界の大スターの一人と見なされていた。戦後は脇役として知られるようになり、戦争映画ではしばしば兵士を演じた。60年代から70年代にかけては、『ウルトラマン』や『フランケンシュタインは世界を征く』などの「特撮映画」で端役を演じた。
福岡県久留米市に生まれる。1929年に高校を卒業すると上京し、いくつかの大学を受験するが、入学できなかった。1929年、高校卒業後、上京し、いくつかの大学を受験するが、合格できず、福岡に戻る前に、同郷の映画監督、古味卓治のもとで京都に滞在する。古海の紹介で、プロデューサーの石川歌右衛門のもとでエキストラとして働くことになった。1931年に東亜映画に俳優として採用されるが、この年は作品に出演していない。1932年に徴兵され、第12砲兵師団に入隊する。1934年に除隊した藤田は、マキノ雅弘の京都映画録音に音響技師として入社する。1939年、東宝撮影所に移籍し、俳優業に復帰した。
当初は契約社員で端役だったが、1940年に『妻の梅』で入江たか子、高田稔と共演し、誠実で本物の俳優と評価されるようになった。1941年からは『祠堂物語』など主役級を次々とこなす。1943年、黒澤明監督のデビュー作『姿三四郎』に出演し、人気を博した。加藤隼戦闘隊』での演技で、藤田の男気あふれるアクションヒーローとしての人気はさらに確固たるものとなった。第二次世界大戦が終わったとき、彼は『虎の尾を踏む男たち』の撮影の真っ最中であった。
終戦後、藤田は戦争の英雄を描いた自分の姿を非難し、俳優を辞めようと考えた。しかし、他の職業に就くことは考えられず、再び映画界に復帰した。1946年、黒澤明監督の戦後第1作「青春に悔いなし」に出演。
1948年、東宝のストライキで、大河内伝次郎、長谷川一夫ら「旗十」と呼ばれた脱退組合のメンバーとともに、藤田は新東宝を結成する。この再編成により、藤田は黒澤とのコンビを解消することになる。新東宝では、メロドラマやアクション映画などに出演した。
1957年に新東宝との契約が終了すると、藤田は東宝に復帰し、主に脇役として活躍した。1958年、藤田と黒澤は「隠し砦の三悪人」で再びコンビを組んだ。藤田は脇役であったが、この作品には欠かせない存在であった。その後、『用心棒』など3本の黒澤映画に出演したが、脇役にとどまった。