フェイ・ムーの先祖の故郷は江蘇省蘇州市である。1906年、中国・上海に生まれる。映画監督になる前は、映画の先駆者であるホウ・ヤオのアシスタントとして働いていた。
芸術的な作風と衣装劇で知られるフェイは、27歳の若さで初監督作品『都会の夜』(1933年、聯華電影公司制作)を発表し、批評家と大衆の両方から絶賛されたが、この作品は現在では失われている。聯華公司で映画を作り続けた裴は、1930年代を通して映画を監督し、日本との戦争に対する寓話としてよく見られる『狼山の血』(1936)や、新生活運動の一環として伝統的価値観を美化した『中国の歌』(同じく1935)など、業界の主要人材となる。その後、『中国の歌』はアメリカで限定公開された数少ない映画のひとつとなった。
戦後の中国における三角関係を描いた『小鎮の春』(1948年)で、フェイの中国における偉大な監督の一人としての遺産は封印された(この作品は後にティエン・チュアンチュアンによって2002年に『小鎮の春』としてリメイクされることになる)。2005年、『小町の春』は香港映画評論家協会によって中国映画史上最高の作品と認定された。この「第二次黄金時代」にもフェイは活躍し、京劇を取り入れ、メイ・ランファン主演の中国初のカラー映画『夢の中のウエディング』(1948年)も監督した。1949年の共産主義革命後、フェイ・ムーは他の多くの芸術家や知識人と共に香港に逃亡した。そこで朱子学、飛蕾とともに龍馬映画社を設立し、朱子学の『花子』(1951年)を製作した(龍馬の名で)。
(出典:ウィキペディア)