1925年、劇団「築地小劇場」に所属し、『合葬』でデビュー。1929年、この劇団が解散すると、滝沢修らと組んで左翼系劇団「東京演劇集団」に移籍。そこで彼は労働組合活動に多くの時間を費やした。1934年、村山知義の劇団「新協劇団」に所属し、菊池寛の『父帰るや山本有三童子の人びと』に出演。 1935年、J・Oスタジオ制作の『百人の合掌』で長編映画初主演。1940年8月19日、俳優・演出家らとともに、いわゆる「社会平和維持法」違反で逮捕され、劇団は解散となった。
戦後、第二新京劇団、文学座を経て、1952年に劇団民藝に入団。1953年、吉村公三郎監督の『夜明け前』に主演。
1960年4月29日、NHC大阪局でテレビ演劇の台本を読んでいる最中に脳出血を起こす。赤十字病院に運ばれたが、5月6日に死去。 53歳であった。
葬儀は東京・千代田区の三葉会館で行われた。