吉澤商店の幻灯会に所属し、現像技師を経て、1903年(明治36年)に吉澤商店がニュース映画を製作する際に撮影技師となった。 1905年(明治38年)に東郷大将勝どきを撮影し、固定撮影中心だった当時、日本で初めて移動撮影や鳥瞰撮影を行ったと枝雀は述べている。
1927年(昭和2年)10月22日に死去。53歳での死去であった。
彼の死後、「千葉映画製作所」は長男の一郎が引き継ぎ、1933年(昭和8年)の「小学校地理映画体系」(12巻、15巻)は日本初の体系的教材フィルムとされた。しかし、1945年(昭和20年)の東京大空襲で焼失したと言われている。次男の平八郎は、戦後、横浜シネマ開発センター(現・ヨコシネDIA)に在籍していた。
日本映画史上初の、手持ちカメラによる移動撮影を実現。これは、1905年10月22日に東京で行われた東郷平八郎元帥の凱旋パレードの撮影の時のものである。映画史家の佐藤忠男は、千葉が街灯に登って群衆を俯瞰撮影したのは、おそらく日本映画史上初であったと主張している(佐藤、119)。後年、カメラマンの枝政由郎は、映画史家の田中淳一郎との対談で、吉澤商店の師である千葉が、三脚から軽量のゴーモンカメラを取り外して肩に担いでパレードを撮影していたことを語っている。また、同イベントでは、千葉が両手でカメラを持ち、人の列をかき分けながら撮影を始め、その横を歩いていた枝雀がカメラを回していたと枝雀は続ける。この段落の出典(http://eiga9.altervista.org/)