東京で赤塚親弘として生まれた赤木は、第二次世界大戦中、空襲を避けるために家族とともに湘南に移り、やがて葉山に落ち着くことになる。戦後の日本の家庭にありがちな苦労はあったが、おおむね楽しい子供時代を過ごした。
1958年、赤塚は成城学園に入学する。1年生の時、日活が全国規模で行った新人発掘で、「日活ニューフェイス第4期生」に選ばれた。赤木圭一郎にとって、大学はどこでもなく、日活撮影所の映画学校であることを意味した。
大学を出て1カ月もしないうちに、西川克己監督の『明日をかける男』で、無名のエキストラとしてスクリーンデビューを果たした。その後、井上梅次監督の「嵐を呼ぶ夕陽」に本名で出演する。
1959年3月18日、井上梅次監督の映画が公開された。この「群衆の中の太陽」で、近廣は初めて井上から命名された「赤木圭一郎」を名乗った。翌月、山崎徳次郎監督の『拳銃0号』で “新人 “赤木圭一郎がスクリーンに躍り出た。この作品での好評を受け、日活は1959年9月公開の鈴木清順監督『すっぱだかの年令』で赤木を初めて大役に起用する。同月、圭一郎は「清水のあばれ坊主」で石原裕次郎と共演する。松尾昭典監督のこの映画で、赤木は裕次郎を圧倒してスクリーンを埋め尽くしたのである。
赤木圭一郎は、第一級のスターになりつつあった。初のカラー作品となった野口博史監督の『拳銃無頼帖・抜刀の流』で、日活のアクション三銃士の地位を不動のものとしたのである。この作品は、往年の名優・宍戸錠を主演に迎え、ヤク中だったエース・リュウが歪んだ犯罪組織と戦う緊迫したアクション・ドラマで、強力な成功を収めた。[本作の公開時期については、一部で混乱が見られる。多くの資料では1959年12月公開とされているが、1960年2月とされているものもある。どちらの日付も正しい。この映画はもともと59年末に公開され、要望が多かったので60年初めに再公開された]。
その後、赤木圭一郎の映画は猛烈に増えた。日活は1960年に11本の赤木圭一郎映画を製作・公開したが、その多くはこの時期の風俗映画の最高傑作であり、そのすべてが興行成績の上位を占めた。中でも「剣客商売」の後日談は見事なもので、「トニー」「エースの壺」のコンビは当時最高の人気を博した。
1961年2月、赤木は牛原陽一監督の「くれないの拳銃」という派手なガンマン映画に主演する。このガンアクション・スリラーは、赤木が完成させた最後の作品となった。1961年2月14日、「くれないの剣」の成功からわずか3日後、赤木は日活のバックロットでゴーカートを試運転していたが、コントロール不能となり、鉄扉に激突する。赤木は、すぐに東京慈恵会医科大学附属病院の救急外来に運ばれた。数日間、優秀な医師たちが赤木の命を救おうと奮闘したが、結局2月21日午前7時50分、頭蓋内出血のため息を引き取った。赤木圭一郎はまだ21歳であった。
ジェームス・ディーンやブルース・リーのような若くしての悲劇的な死は、彼のファンにとって、より一層、愛しい存在となった。死後もその人気は衰えず、赤木圭一郎は何百万人もの人々にとって永遠の若者のアイコンとなっている。
プロフィール:クリス・ケーシー、「八重の谷保組」2001年版。
福島達也氏に感謝します。
出典 (http://shishido0.tripod.com/akagi.html)