20代半ばから映画監督として活躍した阿部は、ハリウッドで修業し、同郷の早川雪洲の主演作にちょい役で出演していた。帰国後、日本のルビッチと呼ばれるようになり、機知に富んだ洗練された社会風刺の数々が評判となった。陸に上がった人魚」(1926年)は、甘やかされて育った金持ちの女性と、貧乏だが誠実な女性、2人の若い女性の恋のライバル関係を描いた作品である。また、『彼をめぐる五人の女』(1927年)は、ある独身男性とその恋人たちに焦点を当てた作品である。最も有名なのは『脚に触れた女』(1926年)で、作家と女泥棒の出会いを描いた2度にわたる皮肉な喜劇である。これらの作品は、戦前の阿部作品のほとんどとともに失われてしまったが、戦前の音響映画のうち『太陽の子』(1938年)が現存している。北海道の非行少年院を描いたこの作品は、阿部の風景に対する眼力を示すとともに、よりシリアスな分野での力量を確認させるものであった。
この作品の曖昧な自由主義はすぐに放棄され、阿部は『燃える空』(1940年)、『あの旗を掲げよ』(1944年)などの大ヒット作によって、太平洋戦争前・戦中の国策プロパガンダの主要制作者のひとりとなる。50年代に入ってからも、『戦艦大和』(1953年)、『私はシベリア捕虜だった』(1952年)などで、日本の軍国主義へのあこがれを露わにした。戦後の阿部の作品の多くは、『銀座の砂漠』(1958年)のような風俗映画で、東京のおしゃれな銀座を背景にした残忍で愚かな犯罪スリラーであった。しかし、谷崎潤一郎が戦前の大阪の上流階級の生活を描いた小説を初めて映画化した『さめざめ雪』(1950年)で商業的成功を収めた。その後、自由奔放な喜劇『憂き季節』(1959年)では、現代の社会風俗を面白おかしく取り上げるなど、かつての風刺的な感覚も持ち合わせていた。サイレント時代に阿部が風刺作家として名声を得た作品が、現在では保存されていないのは残念なことである。
(出典:日本映画監督批評ハンドブック)